HOME


 

【書評】

西谷修/金子勝/アラン・カイエ

『“経済”を審問する 人間社会は“経済的”なのか』せりか書房2011

『図書新聞』2011917日、1頁、所収

橋本努

 


 

 グローバル社会をめぐる今日の言説は、圧倒的に「経済」の用語でもって語られている。これはしかし、奇妙な現象ではないだろうか。歴史的にみると、普遍的な言説はまずもってキリスト教であり、理性を代弁する哲学であった。ところが二〇世紀末以降、世界の言説空間は大きな転換を遂げる。もはやキリスト教も哲学も、コミュニケーションの中心にはない。代わって経済学こそが、普遍を語る道具になってしまった。これはいったい、どうしてなのだろう。

 そんな巨視的視点から、本書は「経済」の本質を厳しく問うている。本書は、二つのシンポジウムから生まれている。金子勝氏、アラン・カイエ氏をそれぞれ招いての講演会と討論の記録に、カイエ氏の諸論稿を加えたものである。全体を貫いている問いは、編者西谷修氏の次のような関心だ。

 現代の「経済」とは、還元主義的な領域として制度化されたものにすぎない。それは人間の社会を包摂する厚みのある領域ではなく、むしろ徹底的に切り詰められ、薄っぺらにされた普遍である。そんな経済言説が私たちを支配しているとすれば、それは倒錯状態なのであって、私たちは経済学を批判的に捉え返さなければならない、云々。

 経済言説を批判して、普遍を語るための豊かな哲学を奪還する。かかる試みは、マルクス以降の経済思想が取り組んできた課題でもあった。ところが批判の先に、どんな代替的ビジョンを語りうるのだろうか。

 今日、新自由主義や金儲け第一主義を批判する人々は、たとえばカール・ポランニーが描いたような、「社会に埋め込まれた経済」という理想を掲げるだろう。ではポランニーが理想とする「キリスト教社会主義」は、どこまで魅力的なのであろう。この問題を考えはじめると、次第に批判哲学の夢も覚めてくる。大鉈を振るって切り捨てたはずの「悪しき経済言説」が、またもや支配的な地平に現れてくるからである。

 例えば金子勝氏は、新自由主義に代えて、「環境エネルギー革命による雇用創出」というビジョンを掲げている。ところが経済学批判の立場からすれば、こうした環境革命のビジョンもまた、「金儲け」のための戦略とみなされるのではないだろうか。金子氏によれば、あるとき「おれは、これ[環境エネルギー革命]でみんなでお金もうけしたいんだ」と言ったら、高橋哲哉氏に怒られたという。思想的に軽くて「不真面目でけしからん」、とか言われたのだという。

 おそらくここが分岐点であるかもしれない。経済のリアルな部分に踏み込まずに、経済学批判の営みに留まるのか。それとも、現実政治にコミットメントして、「何で食っていくか」を考えるのか。金子氏は、自分は後者の立場に立って、いわゆる左派知識人と距離を置いているのだと自覚的に述べている。

 アラン・カイエ氏もまた、独自の経済学批判から、一歩踏み込んだ代替的ビジョンへと向かっている。本書の討議で興味深いのは、カイエ氏が、『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社)で知られるセルジュ・ラトゥーシュ氏を批判している点だ。ラトゥーシュ氏は、反功利主義の立場から、「持続可能な発展」という政府の理念を批判し、「脱成長」と「縮小された地域経済」の理想を掲げている。ところが同じく反功利主義の立場に立つカイエ氏によれば、私たちは「物質的要求を減らす」ことができないのであって、人類に対して縮小・減退を求めるわけにはいかない。ラトゥーシュ氏とその支持者たちは、禁欲的な節約経済を理想としているようだが、それは楽しくない。楽しくないから「楽しい」という形容詞をつけているにすぎない、というのである。

 もっとも最近のラトゥーシュ氏は、こうした批判に譲歩を示して、三〜五%の経済成長率でもって「脱成長」を語ることができるとしている。経済成長と両立する脱成長とは、いかにも語義矛盾であるが、これは私たちの勢力論的な関心がもつ抗いがたい威力を示しているのではないだろうか。私たちは、社会の勢力を減らすことに、容易には合意できないのである。

 では、カイエ氏が掲げる代替的ビジョンとは、どんなものであろう。それは、現代の闘争的で多極的な経済民主主義を擁護するものであって、それ自体に新味があるわけではない。氏の貢献はおそらく、モースとポランニーの経済思想を、現代の社会民主主義を正当化するための源泉として位置づけた点にあるだろう。連帯の経済は、贈与の論理とオイコノミアの理念を必要としている。その構想がもし、経済を停滞させずに、社会をダイナミックに発展させるとすれば、それは私たちの民主的な行動力と自己反省力にかかっている、というわけである。

 討議を通じて経済学批判の現代的地平を示した本書は、刺激的なやり取りに満ちた一冊である。読者の思考を大いにかきたてるにちがいない。